骨董と審美眼
董とは、奥深く蔵する事を云い愛玩すべき古物を差します。中国では
細かいものを入れ混じえると云う意味もあり五目飯の様な混ぜご飯を
骨董飯とも云いました。高貴な骨も馬の骨も古美術も古道具も全てを
含みながら、審美し愛でるそこに骨董の大きな楽しみが在ります。
上の写真は江戸初期の古九谷と書いてあります。一般の陶作が創った
物なので銘は在りません。古色然とした桐箱等は如何にもな古臭さが
漂っておりますが、このような細工はいくらでも作れます。デザイン
も良く見るモノです。皿見て400年前かどうかは判りません。これ
は純粋に古い九谷少し良いのが欲しいなとずっと思っていて値段が半
額になったので手を打ちました。コロナの足元を見る悪い買い手です。
偽物だろうと本物だろうとどっちでもいいのです。骨董市では本物も
偽物も、ただ古いと云うだけのジャンクな物も一杯あります。しかし
その一品一品は、名工であれ職人であれそれなりに意匠を凝らして世
に出したものです。想定した買い手がいて技巧でありアイデアであり
可笑しみであり何らかの工夫がある。目白の古道具の「坂田」等では
雑巾や古新聞などがそれなりの値段を付けられて売られていました。
(坂田さんは、北九州出身と云う共通点もありますが同じ散髪屋に行
っています。最近調子が悪いようです。)好みとはとても恣意的な狭
い処なのですが、そこに普遍的な美しさを追求していくと独自の審美
眼が磨かれます。骨董市は、美術館や展覧会などに足元にも及ばない
「目の学校」なのです。