戦争の記憶
2020 年 8 月 18 日 火曜日盆の三日間を休みにしたのですが、何処からもやんわりとお断りの言葉を
頂いてしまい、何処にも出かけることが出来ない盆休みでした。田舎に帰
っても墓参りをしたら、後は高校野球を眺める様などうでも良い様な何か
待っていたら、冷たいものが出たり、子供が水浴びしたり、日が陰ったら
さて酒でも行こうかとだらだらと過ごすだけの時間です。唯々、何も無い
時間だけが過ぎて行く。これが基本的な盆休みの過ごし方でした。
東京のテレビは、映画が見れるのですが、75年前の戦争をテーマにした
モノが多かった。日本の戦争物は嫌いなので殆んど見ることは有りません。
反戦をベースにしていたり、2度とこんな事はと云う感じであの戦争の悲惨
を画いているのですが、必ず映画の基本になっているのが、確固たる愛国心
を体現する、兵隊、将校、国民の姿なのです。記憶は常に美化されていく。
しかし、記憶と事実は違います。下の写真は、真珠湾攻撃の5か月後から
始まった首都圏空襲の被災地図です。全部で130回の首都圏爆撃が在り、
25万人が亡くなっています。赤い処が焼け野原になった処。白い処は3年
間、一回も爆弾が落ちなかった処。皇居、近衛師団、軍中枢部、陸軍省、参
謀本部、丸の内ビル街も無傷、赤羽弾薬庫も攻撃なし。軍需工業や羽田飛行
場も損傷なし。悉く攻撃されていたのは民間人の住居と生活の場だけでし
た。
終戦の10月、上海の大学の校庭にアメリカ軍のトラックが何百台も並びま
した。父の部隊は操64師団、約1万人の部隊でしたが武装解除になったの
が11月です。勿論、ソビエトが関東軍60万人をシベリアに連れ去ってし
まったと云うのがアメリカの思惑が大きく外れた処。皇室の所有地上野公園
や新宿御苑には空襲が無いのだったら、最初から云って呉れたら助かる命も
在ったはず。戦争の記憶がとか云うけど、本当の事なんか誰も言わない。