ノズルは?ノズルに着けばいいじゃない?
2015 年 9 月 10 日 木曜日深夜、まだ夜明けには遠い夜三時。
読書したり、妄想を膨らませたりあれこれ考え事していると
便所のほうから一人静かにノズルを洗うロボット便器の
作業音が聞こえてきます。去年新しく設置したウオシュレットです。
排便時の時だけではなく、1日に何回か自分でノズルを洗っている
ようなのです。シャワーをかけたりもしているようで初め気づいた時は
気持ち悪かった。がばっと戸をあけて「何しとんねん!」と云いたい
衝動に駆られました。でも掃除機もロボットありますしね。
人工知能や作業ロボットがどんどん進化していくと、私たちは
生きる喜びや可笑しみを何から得れば良いのでしょう?
悪とか毒とかばい菌と云う生き方が唯一残された人間らしさかも
しれませんが、そんなこと言うと総攻撃を食らいそうです。
TOTOのコマーシャルはその辺のところをちくりと指し示していて
すこし面白いです。
あけび
2015 年 9 月 10 日 木曜日シベリア抑留詩人の生と死
2015 年 9 月 9 日 水曜日吐き出した言葉とそれを受け取った感想との間にはどうにも
渡れない大洋が横たわっている。体験だけではないかと云う
意見に絶望的な落胆を噛み締めながら、それでも吐き出さざる
えない焦燥、そして言葉。一時の評価も気休めにはなるが、
根本的に壊れてしまった自我は回復することは無い。
それでも石原さんには詩があった。圧倒的な賛辞があった。
自殺ではないだろうなと思います。でも生きていても死んでしまっても
どっちでも良いなと云う諦念はあったように思います。
亡くなった月に詩集や作品が一杯出ることが決まっていたのだから
死ぬはずがないという解釈は何も理解していない意見です。
すべて吐き出してしまったらもうそこに残っていなければいけない
理由など何処にもないのです。
「良い人は誰も戻ってこなかった。」夜と霧の中でも云われていた言葉。
南方から帰った人もそのように云います。
望郷と海。ただの海では無い。とてつもなく深い断絶だと思いました。