ワタシの犬

2013 年 11 月 26 日

小学生の時に飼ってた犬の散歩を何回か怠ったことがありました。

2回目か、3回目の時だったか、怒った父はワタシと犬を自転車に

積んで保険所に行ったのです。

「こいつは犬の世話を仕切らんのです。処分してください。」

その犬が私にとっての「昭和の犬」です。

犬は大好きなのですが、ワタシには飼う資格が無い。

写真の犬はダッシュ村の3代目北斗です。

2人が病院送りになった狂犬です。

昭和の犬

2013 年 11 月 25 日

昭和という時代は、面白かっただろうか?苦しかっただろうか?

それぞれの家庭によって、その起きたことによってそれは様々で

あると思います。それらの様々を含めて面白かったか、苦しかったか?

犬が癒しの相棒として、その家の宿痾を鎮めてくれるということもあります。

戦後10年たってからシベリアから帰ってきた父親は、ある意味壊れていた。

そして壊れた父親を中心にその家は昭和という時代を生きて行く。主人公の

娘は、父親が起こす激昂を割れるといいます。ある意味感情のタガが外れるの

です。いつもびくびくしながら、その家から逃げることばかり考え続ける。

その娘の心を唯一慰めてくれるのが犬です。ワタシは、犬と娘の関係をその

まま、父と娘の支配と隷属という関係と同じ構図で見ていました。ただ親と

子供の関係がそんな単純な一方通行で行かないところが恐ろしいところで、

父親の精神的な歪みというのは子にも乗り移ります。真面目にキッチリコピー

します。表層的に娘も割れるということではありません。もっと心の奥深い傷を

コピーしてしまうのだと思います。どこの家にもある普通のエピソードをつないで

いくような家族の歴史ですが、明らかに普通ではありません。それがあの昭和

という時代なのだと思います。シベリアからノモンハンから南方から南京から

沖縄から心に大きな傷を負ってみんな帰ってきた。帰国して普通の生活に

戻ってすべて忘れてバリバリやって行けたのでしょうか?人間はそんな単純な

ものでは無いです。ただ黙々と働き続ける事でしか、償えなかったあの時代。

戦後の繁栄はあの時代の証人の方々がもたらしたもの。

支配と隷属としての犬。安らぎと癒しとしての犬。

奥行きのある読み方ができる話だと思いました。

ベルギーに勝つ

2013 年 11 月 20 日

ベルギー戦、勝ちましたねぇ。本田君八面六臂の活躍でしたね。

歌舞伎役者の女形のように小走りで駆ける柿谷君もワンゴール

ワンアシスト。W酒井も良かった。内田君と長友君は尻に火が付いた。

このWサイドバックが上がりすぎで、今まで点取られてたけど。

メンバーはいろいろ動かした方がいいです。いつも必死でないと

勝てないのが我が日本。必死になる燃料をいつも投下してないと

駄目ですね。吉田君を責めるようなアップがあるけど、それは酷です。

戦術的に常に両サイドバックが上がるようになっているのだから。

これはフォーバックの弱点。やはり一番大きいのが本田君がずっと

走り続けたこと。ずっと球を追い続けたこと。日本は、体も大きくない

蹴る、止めるもそれほど上手くない。としたら動きの質と精度を高めた

方が良いでしょう。点と線で戦うのではなく、面で戦う。

メキシコやウルグアイがよく走ります、動き続けている。動き続けている

ことで身体差が無くなります。少しぐらいのテクニックの差もなくなります。

体の大きい人、テクニックのある人はあまり走りません。走らなくても

出来るものを持っているから。でもそこが弱点です。いつだって長所の

すぐそばに弱点があります。良いところと悪いところは、一つのものの

別の見方にすぎません。

日本の環境として唯一の欠点が高温多湿の夏にやっているので

恒常的に省エネ戦法で戦う習性が出来てしまっていることです。

いよいよ、来年ワールドカップです。走りの質と度胸を付ければ、

良いところまで行けると思います。オシムが言っている「走れ」という

のはずっと正しいと思います。

ハンナ・アーレント

2013 年 11 月 18 日

岩波ホールは敷居が高かったのです。

教条主義的とまでは、言いませんが、ロックンローラーとしましては

こんなところに出入りするようじゃあおしめーよぉと考えていたのです。

気になる映画はあったのですが、見に行くことはありませんでした。

今回、新聞の社説まで取り上げていたので長年の自戒を解いたのです。

アイヒマン、ユダヤ人虐殺責任者の裁判の話です。ハンナはこの役人は

命令を遂行しただけだといいます。それが物議を醸します。全体主義に

おける個人の責任というのは、日本においても考え続けなければいけな

かった問題ではあります。ハンナはファシズムには個人の責任は無いと

までは言わないが役職を全うしただけの役人を罰しただけでは、解決には

ならないという立場をとります。

アイヒマンも「私は、ただ真面目に命令を遂行しただけだ」と云います。

全体の罪ではあるが、それを行使するのは個人です。そして個人の

意志の集積がファシズムです。そして罰は個人に与えられます。

「凡庸な悪」という言葉で済ますには、この問題はあまりにも大きい。

私たちには、種の保存の本能があります。生命保存の本能もあります。

この生命維持装置の邪悪な本能を「凡庸な悪」というのでしたら、それこそ

これが原罪というものでしょう。本能というものを持ち出して擁護するつもりは、

有りませんが、ここに自己正当化の心理が働くのだと思います。無関心と

無思考。戦前の日本では絆と因縁。これが、大きな推進力になりました。

全体における個人の役割と働きをもっと掘り下げて考えないと何度でも同じ

過ちを繰り返します。

ハンナ・アーレント。煙草飲みです。ずっと吸い続けています。寝ても覚めても

吸っています。この吸い続ける煙草を「思考」と言ってるのでしょうが、

「煙草」では、少し弱い。所詮煙になって消えるだけです。悪はいつだって

具体的なのです。

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