中野 街道 尾仲さん

2016 年 10 月 15 日

今日は気持ち良く晴れました。下の廃校になった小学校がオリンピックの年までに

公園になることが決定。これで我が家の空中庭園は安泰です。

先週から中野の街道で「熊本応援写真展」が開催中です。明日10月16日まで。

写真家尾仲と本山さん、造本町口さん。画像作成、印刷、製本はイニュニックで

やりました。

先週の阿蘇山大爆発でまたまた、熊本は痛手を被って終いました。

次の写真集の打ち合わせを兼ねて陣中見舞いに行って来ました。

場所は中野駅を降りて北口に出てそのまま線路沿いの道をどんどん、新宿方向に

歩きます。途中、L字型に曲がってまた線路沿い、いい加減歩いて、そろそろ東中野に

着くのでは無いかと丁度思ったところの左側、ビルの半地下に街道はあります。看板

出ています。味のマチダヤで仕入れたワンカップ(有名酒蔵の銘酒を木村社長の顔で

強引にワンカップにしたもの)もずらり品揃え、腰を落ち着けて写真談義に花が咲きます。

クロフチの束見本と画像修正の最終版の打ち合わせです。

尾仲さんの好きなナチュラルブラウンに写真集のタイトルクロワク。

本フランス装に中は糸ミシン綴じ。「タテイチクロワク」

B6判32ページ(ダブルトーン+ニス)+表紙(箔押し、フランス装)

完全限定500部 予価2500円

まずは来月のパリフォトに持っていきます。

ボブ・ディラン ノーベル文学賞

2016 年 10 月 14 日

どんな気分だい?

どう感じる?

人に読んでもらえないって

誰にも知られることなく

転がる石の様になるって

やったー、という気持ちはあります。でも、どうしてと云う疑問もあります。

歌詞は素晴らしいけど、文学では無い。誌とサウンドとリズムが至高の

レベルで融合した音楽です。文学に対する叱咤だと思いました。

本が売れない、本を読まない。電子ブックで十分と云うのは、文学の

レベルが低いというのでは無く、やはり時代に合っていないという事なのかも

知れません。ハルキは問題外。彼のは色んな哲学的精神現象学をアメリカ

西海岸の風俗雑誌、ポパイ風に並べて紹介しているだけ、内容が無い。

最後は大抵、「やれやれ」だし。

写真家松岡さん立ち合い 

2016 年 10 月 13 日

写真同人誌九州の松岡美紀さん。 写真集「SPACE」印刷立会いで

上京してくれました。友達の明石瞳さんと一緒に。お二人で来月の

パリフォトとドイツの展示に行かれます。最後の大詰めです。

簡易校正5回。本紙校正1回。データで完全に仕上がっているので

作業はスムーズです。

推拿 畢飛宇

2016 年 10 月 6 日

先月、台湾の方の紹介で中国式按摩、推拿整体のお店のチラシを作りました。

チラシを作ったのとこの本を読み始めたのが丁度同じ時期でした。その台湾の

方は目は見えるのですが、小柄の女性の方でした。推拿とは体の経絡、ツボを

手で揉み解し、体のバランスを正常に戻す整体です。

最近の私は目から離れたところの感覚や表現に関心が向いています。

吉増剛三さんからですね。言葉やテキストを音、声、体の動き、時間に置き換えたり、

山谷さんの写真が写す夜の家シリーズなど。これは、灯りの消えた家を撮りながら

家の中の家人の様子を連想させます。夢の中で本能を開放させたり、夜の営みの

中に自分自身を見出し体を解放させたり、見る見せる世界から離れて世界を

目以外のより身体性の強い感覚で再構築する表現が面白いです。

この本、邦題「ブラインド・マッサージ」は、南京のあるマッサージ店を舞台に

そこで働く盲目のマッサージ師のそれぞれの来し方、生き方、覚悟を温かく

書いています。ある意味運命に身を委ねるしかない人生は、プライドとそれを受け

入れる強さが必要です。我々は目で世界を見ているようでいて、表層をなぞって

いるだけで、どれだけ本質を見極める事が出来ているでしょうか?

世界を感じる事と事象の本質を見極める事に命がけの彼らの思考はとてつもなく

深いのです。逆に言えば膨大な絵で世界を理解した気になっている我々は

どんどん幼稚になっているのかもしれません。久々に時間を忘れて読み耽る

事が出来ました。現代ものでは中国文学は初めてでしたが、レベルは相当高い。

泣き顔

2016 年 9 月 30 日

朝はBSの海外のニュースを見ています。しかし非常に興味を引く

ニュースが流れていても、7:30分になったら情け容赦なく朝の

テレビ小説に変えられてしまいます。今回は暮しの手帖の話でした。

主役に抜擢されるには、それなりの理由があります。若いころの演技。

年を取ってからの演技。間やくたびれた感じ。腰回り、動作。ちゃんと作って

いるなと感心していました。それが佳境のお別れのシーンになって気づいた

のですが、泣き顔は子供の顔になってしまうのですね。泣くという事が

子供の領分だからでしょうか?それとも、子供時分の事を思い出しているから

子供の泣き顔になったのでしょうか?大人の泣き顔が出来ていないという批判では

ありません。オトナになったら手放しには泣けません。我慢するし、カッコつけるし、

貼り付けてきた大人の顔を無残、含羞剥がし落とすことも出来にくい。

子供は弱いだけに、一つ一つの結びつきや自分の思いが命がけなんだと思います。

年取って子供の様に泣けないのは、必死になってそのような関係を作っていないから。

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