6月23日
2009 年 6 月 23 日 火曜日今日は、久しぶりに晴れて熱くなったので、屋上に上がって雲の写真を撮りました。
今日は、久しぶりに晴れて熱くなったので、屋上に上がって雲の写真を撮りました。
今年も製作させて頂きました。
乳首を文化人類学的な観点より考察されております。
日本中にこんなにも多くの乳首学者の方々がおられ、また日々研究に勤しまれているとは、不肖私、寡聞にして知りませんでした。
先週、ちょうど「1Q84」を読みながら月と乳首について考察しておりました。
1Q84の中の乳首は、天吾を長く悩ませ続けるトラウマとして登場します。
本物の月と偽物の月がある様に、本物の乳首と偽物の乳首が・・・
いや違います違います、本物の天吾クンと偽物の天吾クンが乳首を渇望しております。
でもこの話は、このあと何も発展しないのです。
このような仕掛けが沢山あります。
何か不思議な迷路に連れ込まれたようで、どうもすっきりしません。
乳首学者の方々に、女性が多いと云うのもまたもう一つの迷路に入り込んだようで不思議です。
やっとこさ読み終わりました。
いきなり青豆のキャラクターに違和感を覚えてしまいのめり込めなかった。
どのように解釈したらええんかよう解りまへん。
みんなもルイス・ブニュエルの「皆殺しの天使}状態に陥ってるような感じがします。
やっぱし「阿Q正伝」的な読み方をするんがまともなのかなと思いますが、いまいち辻褄が合わない。
ジョージ・オーウェルも魯迅も実存主義的な人であります。
非難しようが抱きしめようがそこには確固たる愛があった。
でも今回の作品は、明らかに今までと違うように思います。
その小説の中にある言葉が出てきたらそれは具体的に使われなくてはならない。結構しつこく、繰り返されています。
打たれた布石は使われなくてはいけない。
そういった意味では、まだ始まりにすぎないようですから、続きを読んでからと云う事で。