夜明けのあさり
2011 年 3 月 8 日朝方トイレに起きると、台所のほうでカチャリコトリと鍋が鳴る。
抜き足差し足忍び足で鍋に近づきます。
まだほの暗い月の光さす窓辺の鍋。
静かに素早く蓋を取るとそこに現れるのは、禍々しいまでに水管を
伸ばしに伸ばし鍋の底に重なりながらのたくる浅利達。
春はこうして少しずつ少しずつ下りてきます。だけど
ここに来ているのは浅利の春なのか人間の春なのか?
朝方トイレに起きると、台所のほうでカチャリコトリと鍋が鳴る。
抜き足差し足忍び足で鍋に近づきます。
まだほの暗い月の光さす窓辺の鍋。
静かに素早く蓋を取るとそこに現れるのは、禍々しいまでに水管を
伸ばしに伸ばし鍋の底に重なりながらのたくる浅利達。
春はこうして少しずつ少しずつ下りてきます。だけど
ここに来ているのは浅利の春なのか人間の春なのか?
インテルの長友君がイタリアで初のゴールを入れました。
実にすばらしいゴールです。
長友君がみんなに好かれているのが特に良いですね。
人から好かれる人であるのが一番大切です。
長友君のおっかさん、本当に嬉しいだろうなと思います。
日曜日になるとかみさんは、どこそこに行こうと言い出します。
ほとんど歩きで。私は普段通勤で歩いているので日曜日は
家で本でも読んでいたい。
今日は中野の島忠に植木鉢を買いに行きたいといいます。
6キロぐらいなので行きは良いのですが、帰りは重たい。
結局帰りは電車に乗って帰宅。 人生は、 つらいな。
昨日読み終わった「沖縄文化論」で完全にはまってしまった岡本太郎。
さっそく今度は「日本の伝統」を買ってきました。
読み始めると縄文土器の美しさを最初に発見したのは、岡本太郎だと
あります。
先週確か、「縄文土器、弥生土器、どっちも土器、どっちが好き?」と
ラジオから流れてきたのをただ単に歌詞が面白いと思っていたのに・・・。
かみさんに話したら、先々週行った岡本太郎美術館で縄文土器のことが
書いてあったじゃないと言われる。覚えているようないないような。
記憶が曖昧だったり、途切れていると不思議なことが起きているように
感じる。私がよくやる失敗にカレーの3度食いというのがあります。
夕食でカレーライスを食べて、翌朝残ったカレーライスを美味い美味いとまた
平らげます。そして昼休み蕎麦屋のメニューを見ながら、カレーそばのところで
なぜかピンときて注文します。カレーの匂いを漂わせながら運ばれてきた
ものを見てはたと思い出すのです。昨日も今日も食べたものじゃないかと。
冒頭、柳田國夫氏の「日本残酷物語」からの一節をそのまま
紹介しています。炭焼きのおやじが子供に食べ物を食わせられない。
子供が、「阿爺、この斧で自分たちを殺してくれ」と云ってあおむけに寝た。
それを見るとくらくらして、前後の見境もなく二人を殺してしまう。自分は
死に切れなくて捕えられて牢屋に入れられる。60になって、特赦で世に出て
来たけどそれからどうしたか、すぐに分からなくなってしまった。
岡本太郎さんは、これを人間生命のぎりぎりの美しさ、透明な命の流れ、
ヒューマニズムとか道徳とかのレベルで議論できるレベルではないと
云います。この残酷である美しさ、強さ、無邪気さ。この根源的な人間生命の
逞しさが日本とその周辺を支えてきた。
これを読んで私は、心底感動しました。この人は本物の芸術家だと思いました。
だてにバタイユやピカソと交遊してたわけじゃない。
テレビのイメージと、作品のイメージでどこか輕んじるところがありましたが、
あの形には途轍もなく深い省察と造形があったのです。
楢山節考は、愛と云うより命の美しさの話なのに、美しいと云うには少々
抵抗があった私は、愛の話だと思い込もうとしてしまいました。
その類い稀な眼識が日本の昔を伝え残す沖縄をつぶさに捉えた稀有な文学
と言えるものです。 岡本太郎、 凄いの一言です。
太陽の塔が岡本太郎だ。