石としてある
2024 年 8 月 16 日先日から石について考え始めたのは、この小冊子のせいなんですね。完成品
の山の中から見つけました。つげさんの「無能の人」という漫画は、好きな
作品です。朝の会議の場で若い人に「失敗を恐れて安全な道ばかり行こうと
している」と話しました。自分は有能な人だと思いたいのだろうけど、大抵
の人は無能です。無能と云う自覚があるからチャレンジできる。だけなんです。
先日から石について考え始めたのは、この小冊子のせいなんですね。完成品
の山の中から見つけました。つげさんの「無能の人」という漫画は、好きな
作品です。朝の会議の場で若い人に「失敗を恐れて安全な道ばかり行こうと
している」と話しました。自分は有能な人だと思いたいのだろうけど、大抵
の人は無能です。無能と云う自覚があるからチャレンジできる。だけなんです。
大層な葬式は、しなくなった。結婚式もしかり。辛うじて残っているのが
誕生会、卒業式。繫がりが深くなると個人と云うのは無くなって行く様な
気がします。最初は個人をアピールすることに夢中だったけど。皆がやり
始めるとそれほど違いが有る訳でもなく、同じようなモノの集合体。つまり
それは自分が細胞の一個に過ぎないと云う事を知る事になっただけ。動物に
は死もないし、自己はあるけど自我はない。ネットで執拗に誰かを叩くのは
正義の為ではなくて大きな枠を守ろうとしているだけ。東南アジアの「ムラ
ブリ」は、森の人と呼ばれているのだけど、森と一体化した存在。あのムラ
ブリに近づいている気がします。しかし彼らの一体化は、自然としての森を
含んでいます。しかし我々の繋がりは自然と肉体を含んでいない。頭だけと
云うのは恐ろしい。吉野家で「頭大盛り」と云うのが有って一回食べたこと
があります。お肉が一杯あって美味しいのだけど、何かバランスを崩してい
る気がしてそれ以降注文していない。単に45年の習慣に過ぎないんですが。
約ひと月かけて読了。歴史や文化、発明などが有って系統立てて理解
することが出来ました。松浦さんは、恐ろしいほどの博識ですね。
最後の章は21世紀の22年がしっかり書かれていて非常に興味深い
洞察があった。土曜日の新聞には「百年の孤独」の文庫版が飛ぶよう
に売れているという話があり、やはりWEBと云う牢獄に気付き始めた
人々はいるんだなと改めて思いました。「百番目のサル」と云う現象
を思い起こしました。別に百繫がりの洒落じゃないんですけどね。
それで思いついたのが自費出版の王道と云えば「自分史」なのです。
所謂、何処で生まれた、何処を卒業した、何の仕事をした、という
自分史ではなくて、私と云う存在が世界を又は世間をどう見たかと
云う「私が見た世界・私が愛した家族」と云う自分史が出てきたら
とても面白いと思うのです。日記の次はこれですね。それでその繫
がりでは無いけど、何となく手に取ったのが平凡社の「日本残酷物語」
ぱらぱらと眼を通してはいたんですけど、ちゃんと読み通していなかっ
た。これが本当に気が滅入る本で悲惨悲惨悲惨悲惨。19世紀以前は
どれだけ貧しかったのだろうというもの。8月の気が滅入る月に手に取
るにはぴったりの本です。最近の本はWEBやウキペディアで調べに調べて
書くから異常に小説が長いと云われているそうです。いらんことをダラ
ダラ書いてしまうのですね。
何故か石が私の周りに集まってきている様で私も含めて石について
考えている。石は人類初のいやいや、全ての生き物が使う道具なん
です。それも入れ替わり立ち代わり種を超えて代々、何億年にも渡
って使われてきた原初の道具です。誰が使ったかという記録もない。
有用だけど無名で唯、在る。そこに転がっている。出番を待っている。
「ローリングストーン」は、ロックの精神と云われてきましたが、
今初めて理解出来ました。道具としての石だったんですね。既成の
体制に投げつける礫だ!野球と云うスポーツが根源的に持っている
野蛮さと云うのは、ここにある。
漂泊について本を作ると云うお客さんと石の話になった。仏教の起
源は、狩猟社会から農耕社会へ移行する中でヒエラルキーと貧富が
社会構造として出来てきて腐敗と堕落に異を唱える形で仏教が世界
に広がっていった。しかし聖書派も黙って居なくて農耕社会を補強
する形でキリスト教やユダヤ教が世界を支配していく。何も持たな
い派とドンドン貯め込む派では、端から勝負になる筈がない。
若い人々が今、石に注目する意味はどこに在るのでしょうか?
「路傍の石」と云う本は読んだ事も無いのに、タイトルばかりが気に
入っていて、大人になってもう読めるだろうという年になっても何故か
読まないで済ませている。その辺に置かれている石も良いし、転がって
いる石も良い。小さい時から石がとても好き。
何処かに行くと必ず小さな石は拾ってきます。北岳の石、富士山の石、
バリ島の石、小浜島の石、台湾の石。広島の石は拾うけど、兼六園の石は
拾わなかった。テーブルの上の石は、那珂川の石。那珂川にカヌーに行っ
た時に拾った石です。イニュニックのWEBサイトのイニュ日記の最初の記事
だったのでずっと会社に置いています。石と云うのは、我々生物が出現する
遥か昔から存在していて、あらゆる生物だったり自然現象が利用したり関
わったり偶然なり必然なり、地球の歴史の重要ピースなのです。都会の
公園に転がっている手ごろな漬物石が何人の男を殺してきたか、歴史を変
えてきたか。あらゆる生物の道具になり武器にもなり、じっとそれらの営
為を見てきたはずなのに素知らぬ顔をしてただ転がっている。石は凄い。
「ソウイウモノ二ワタシハナリタイ」なんて結ぶと恐ろしい人のように思
われてしまいますね。転がる石でもいいのです。