生まれてから1万時間目は27歳にやってきます。
2万時間目は54才です。私の2万時間目は2011年の7月に
やって来ていて、すっかり忘れていました。2011年はそんなことを
悠長に考えるような年ではなかった。3万時間目は82才です。
人生大体、3万時間です。10年ぐらい前に「生まれてから何時間?」
と云うサイトを見つけてあれこれ考えていた時があったのですが、
人生を時間で計りながら見るというのが、大して意味があるように思えず、
基本人生は、年であったり月であったり週であったりそうやって節目節目を
数えていくもんだと考えます。それがまた、こんな見方をまたなぜ持ち
出したかと云うと、それはやはりネットやコンピューターの出現です。
160年前の産業革命は動力の所が画期的であって世界が狭まって
物事が大きく短縮された。ある意味その前の時代に比べて沢山の時間を
獲得したわけです。今のコンピューターの発展は第4次産業革命とか
言われるものなのですが、ここでも我々は、膨大な時間を獲得したわけです。
生きている時間は3万時間なのですが、濃度が違います。前の尺度で考え
たら10万時間ぐらいの濃さになっています。身体の時間の速度で云うと
髪の毛はひと月に1センチ伸びます。鼻毛も月に1センチ伸びます。
しかし、パソコンに繋がった頭の回転で云うと鼻毛がひと月に1メートル
ぐらい伸びる速度なわけです。でも実際は1センチの世界から少しも
伸びてはいないのです。ここら辺が時間の容量と身体的な時間の密度の
違いです。基本的に時間と云うのは量ることが出来ない。
かみさんが友人から「貴志さんと観て来て」と云われたそうで東中野ポレポレで
「人生フルーツ」を観てきました。元建築家で日本住宅公団のエースの修一さん。
経済優先の団地のつくり方が意に染まず、距離を置いていきます。剥き出しの
土くれになった分譲地の一画に300坪の土地を買って先ず雑木林を造り
始めます。雑木林で土壌を育てながら四季折々の野菜を育て豊かな生活を
過ごしています。修一さん90歳、英子さん87歳。だけどこれは40年前、
有機栽培、無農薬、自給自足と云う理想的農業を求めて始まった考え方と
ほとんど同じなのです。まして、修一さんほどの能力と技術を持ちながら、
そこを生かさないで自分の生活に埋没するというのは、どうなんだろうと途中
考えていました。だけど修一さんが昼寝しててあっけらかんと死んでしまうのを
見て少し考えが変わりました。人生フルーツ、果実が実るというけど人生は
成果じゃない。人生は連綿と続く時間と云う流れの中の一部分。時が重複して
いる濃い時間の流れか、ペラペラの薄い時間の流れかどちらかしかないです。
ネットやスマフォを駆使する濃密な時間の成果には、心の満足は無いの
かもしれません。古来、こころは胸、心臓の中にあると云われてきました。
心臓は激しく鼓動するか、穏やかに鼓動するかどちらかしかありません。
頭を使いすぎると心臓は弱っていきます。
私にこの映画を観てと云ったかずみちゃん、悔い改めるところは改め、
奥さんを大事にする長生きする爺さんになってねと云うメッセージは、
しっかり受け止めました。
映画の切符を買って昼ごはん。近くの「十番」と云うお店。
亀戸餃子とホワイト餃子の良い処をバランスよく合わせた感じ。
370円。有名な店みたいです。