奈良食べる通信 創刊
2015 年 12 月 18 日 金曜日1937 辺見庸
2015 年 12 月 15 日 火曜日今年前半、週刊金曜日で連載されていたもの。
いきなりぶすりと終わったので少しがっかりしていました。
ナーバスな問題なので論のすすめ方に神経を使います。
しかし、どんな地獄の所業を書こうとも一本の光明が無いと
陽の目は見れない。この連載だけでなく同時に並行して他の日中戦争の
日本兵を記録した読み物をずっと読んでいたので、戦後70年の今年は
とても精神的につらい年でした。この本は堀田善衛の「時間」をベースに
あの南京大虐殺を考察した本です。途中から辺見さんの父上に絡めて
中国での行いを我が事として書き進めて行ったとしても、やはり
そこだけですと冥闇のままです。10月に本になって上梓されると聞いて
ずっと置いていた週刊金曜日を全部捨てたのですが、読んでみて吃驚しました。
内容がほとんど書き直されています。今となっては確認しようがありませんが、
今年前半のどす黒い感情は湧いてこなかった。平易に読みやすくすっきり
書かれています。
さて私の父は、戦後は上海に長く残って国民党との交渉係でした。国民党が
台湾に移るときやっと帰ってきました。その時の栄光が忘れられない人でずっと
自慢話を聞かされてきました。亡くなる1・2年前、江沢民が全人代で演説して
いるのを見て「あの戦争に勝っていれば私もこれぐらいまでは行けた」と云います。
私の半生はほとんどこのような態度の父との戦いに費やされました。ほとほと、
嫌になった。とにかくそのような人だったので、あの15年戦争の大体の作戦、
結果、理由は教わっていました。重慶は崖に囲まれた要塞だったので空から
爆撃せざる負えなかった。南京の話は2回程聞いたことがありましたが、それとなく
かわされました。亡くなる2週間前、もうこれで最後だと長く二人きりで話はじめると、
また戦争中の話に舞い戻り始めました。もう一回南京の話を聞きました。父は
1週間後に入ったおじさんの話として教えてくれました。「南京に入るまでの
道の間30キロぐらい、道路の両脇に山のように積まれた死体がずっとうず高く
繋がっていた。」上海から南京は約300キロ離れています。揚子江で繋がった
平坦で肥沃な土地には何百万もの農民たちも住んでいました。
日本軍が上海から進軍して来たら、それらの人たちは当然、国民政府がある
南京に逃げ込みます。基本的には南京の5万人だとか20万人だとか30万人
等大した意味はありません。東南アジアを含めた2000万人を超える人々が
どの様に殺されたのかが重要です。そしてさらに重要なのがそのような行いに
ついての反省と鎮魂の気持ちだと思います。私自身に責任は無いとは思いません。
母は安物の文化包丁を柄と同じぐらいの長さになるまで研いで使っていました。
私も包丁研ぎをさせられました。「包丁は研ぐもんじゃ」と云うのが父の口癖です。
禅問答のような話なのですが、それが今年になって初めてその意味を知って
慄然としました。父は軍刀を研いでいたのです。それらの技法や精神によって
私は育てられています。父の経験は全て私の中に入っている。
「1937」はさりげなく無視されています。本屋もあまり置きたがらない。
南京大虐殺の話を蒸し返してどうするんだという事でしょう。
でもあのことからは逃げられない。日本人だけが忘れることが出来ても刺さった
棘を揺さぶって思い出させる人たちがいます。
今年首相がポツダム宣言を読んでないという話がありましたが、多分知っては
いるけどとぼけたのです。ポツダム宣言の第6条と第7条にはとても重要な、
戦後のアメリカによる日本統治の道筋がちゃんと明記されています。
第6条、日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に
除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の
新秩序も現れ得ないからである。
第7条、第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認されるまでは、
我々の支持する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は、
占領されるべきものとする。
自分たちの手であの戦争を遂行した勢力を助けだし、温存しておいて占領の理由に
しています。それと同じで反省していないことや、無かったと言い張ることは現在の
状況を補完する事に他なりません。心より反省して平和を愛する民族だという事を
本気で表明しない限り、今の状況は続きます。
「1937」はあの「1984」以上に我々日本人にとって重要な本です。辺見さんは父上の
狂気の底まで降りて行ってこれを書いています。命がけで書いたものが無視では、
それは報われない。
水俣食べる通信
2015 年 12 月 14 日 月曜日「水俣食べる通信」今月より発刊。熊本のあの水俣です。
チッソが海を水銀で汚して公害認定されてから59年。
汚染された水俣湾を23年かけて埋立、完成したのが1990年。
不知火の海のあらゆるところを調査して、熊本知事が安全宣言を
出したのが1997年。水俣湾で漁業が再開されました。
水俣病の教訓を生かして「環境モデル都市」として廃棄物ゼロの
社会の実現を目指しています。それでも18年、あの水俣だという事で
獲れた魚は水俣以外では売れません。水俣の人たちは大いに食べています。
あの水俣の魚で苦しめられた水俣の人たちがこぞって食べています。
漁師市は大盛況だと云います。びくびくしながら、自分たちで獲ってきた魚を
直接市場で売ったら、近隣の多くの人たちが買い求めてくれ、待ち望んでいたと
励ましてくれたそうです。それもそのはず、水俣湾は素晴らしく美しい海に
生まれ変わっているのです。
尾崎たまきさんのサイト。 http://www.ozakitamaki.com/
12月号は、田村辰紀男さんの「ヒオウギ貝」 色鮮やかなホタテ貝?
かご釣り式の養殖ですので、安定した出荷が望めます。
75才のじいちゃんが不知火の海から上げた「風評に立ち向かう」狼煙です。
水俣食べる通信は、3ヶ月に一度の季刊誌です。
http://taberu.me/minamata
昭和のあれこれ
2015 年 12 月 10 日 木曜日九州のおばさんが亡くなったそうで、98歳の大往生。
先日の日曜日、御供えの線香を求めて浅草通りにある五雲堂に行きました。
そこで教えて貰ったのが、元浅草2丁目、浅草通りから2本ぐらい入った
所には、あの3月の戦災を免れて、焼けずに残った場所があるという事でした。
それらしき建物を写したのが下の写真です。
ほとんど新しいものに建て替えられており、これらのものが戦前のものか
どうかは疑わしいですが、なんとなくそうではないかと思われます。
屋台のラーメン屋かおでんの飲み屋?
ここから、ぶらぶら御徒町まで歩いて、蓬莱屋のとんかつ。
ここは大正から続くヒレカツ専門店。小津安二郎監督がひいきに
していた処で、原さんが亡くなって、なんとなく来てしまいました。
割と混んでた。「アンニョンハセヨ」と韓国からの若者たちも来るところを
見ると、そのような情報もグローバルに知れ渡っているという事でしょうか?
SNS的な発信力と云うのはそのような通受けのステージまで来ていると
いう事でしょうか?少し驚いております。
まあ、普通に観光で来て、普通の有名店に入っただけかもしれません。
そんなこんなを肉が揚がっていく音を聴きながらうだうだ考えておりました。
しかし第一、本来私は、小津安二郎の映画が嫌いなんです。
原節子もバタくさくてさほど好きではない。世界中が評価する最高の
映画監督と云うのに、何故か生理的な嫌悪感を感じる、そのくせ、
とんかつは食いに来るのです。東京観光に来た友人たちを「ほらココが
小津安二郎が贔屓にしていたとんかつ屋だよ」と案内するのです。
ま、訳判らないのが人間です。そして、今日野坂が死にました。
今年の前半は、珍しく「週刊金曜日」を読んでいて野坂さんの
文章を目にしていました。生きているんだなと思っていたのです。
今日は「骨餓身峠死人葛」でも買って帰ります。