豆腐と納豆

2009 年 9 月 2 日

最近はダイエットのためにお昼は豆腐です。

朝通勤途中にある池袋の「大桃豆腐店」で買います。時々納豆も買いますが、

基本豆腐一丁のみです。   豆腐と納豆は、大好物です。

小さい時から大豆は、畑のお肉だとか言われて、豆腐を毎日食べていた。

子供心には「そんな講釈は要らんからほんとのお肉が食べたい」と思っておりましたが。

先月だったか夜家に帰ったら、かみさんはまだ帰ってなくて、疲れた足を投げ出して

納豆をくちゃくちゃかき回しながらテレビを見ていました。

テレビからはアフリカの草原で生きるライオンたちの姿が映し出されていました。

ライオンは、みんなで狩りをします。狙いをつけた獲物にそろりそろりと近づいて

ここぞとばかりにいきなり胴回りにガッシとばかりにしがみつき、

生きたままの獲物にむしゃぶり付いて行きます。   ショックでした。

くちゃくちゃかき回していた納豆の先の白い足がもっといけない。

あまりにせせこましい。

行儀が悪すぎるという価値基準を持ち出したとしてもです。

「生き方としてどうよ」と問われたような気がしました。ハイ。

ところで、豆腐と納豆は言い方が入れ替わっているように思います。

豆を腐らせているのが納豆で、豆を箱に納めているのが豆腐。

逆が正しいように思いますが。

アイ ポッド シャッフル 2500曲

2009 年 8 月 31 日

歩いて通勤しながら音楽聴いています。

主にジャズ。古いブルースとロックも少し入れています。

「Born To Run」と「Like A Rolling Stone」がかかった日は、

ご機嫌です。今朝、マンションを出たとたん、ボブ・ディランの

「Like A Rolling Stone」がかかりました。

さっきまで自民党敗退のテレビニュースを見ていただけに

いろんな意味で感慨深かった。

雨ざらしのロイヤル・エンフィールド。

ああ・・・・、なんということを・・・・。

目白 かいじゅう屋

2009 年 8 月 24 日

「人は、パンのみにて生きるに非ず」と宣います。

しかしここかいじゅう屋のパンは、

「パンは、食われてのみ生きるに非ず」とも云えるように思います。

自然酵母のここのパンは、食べられなくてもパンとして

自足しているのではないかと思わせるほど味が濃く趣深い。

ここ10年、ドンクのバタールしか食べていない私の感動なので

まっ、話半分ぐらいでお願いいたします。

目白駅より歩いて2分。

休み明け

2009 年 8 月 17 日

5日間の休みから復帰、今日からまたお仕事です。

みんなの元気な顔がまた揃いました。

それぞれの表情に楽しい休日の思い出が見え隠れしています。

私も北九州に墓参りに行ってそのまま熊本まで足を延ばし、

92歳のおばさんに会ってきました。とても喜んでくれた。

おばさん、「ペシャワールの会」の中村哲さんのお母さんと友達で、

女学生時代は、よく玉井さんのうちに遊びに行っていたと云う話を

聴いていたので、中村哲さんのアフガニスタンの功労を話すと

とても嬉しそうに感心していた。本と思い出の中に沈み込むことの

多いような日々の暮らしの中で、小さな花として心にとめてくれたらなと

思ってのことでした。

翌日は、集中豪雨があった妻の実家の佐用町へ帰省。

実家は無事でしたが、川に近い家では床上浸水もあり後片付けが大変そう

でした。でも近隣の各市町村からは、たくさんのボランティアの人たちが集まって

くれていて震災のときの経験が生きています。

介護のつもりの帰省ではありましたが、このような時は手伝いに

行くべきだったかなと少し反省です。

ドナルド・キーン「日本人の戦争 作家の日記を読む」読了。

8月15日の前と後ろをとても巧みに活写していて、出発点の綻びをうまく

示唆しているように思いました。

鈴木大拙「禅百題」こちらは、ポツリポツリ。少し読んでは、考え込むので

なかなか進みません。地を耕すことの中に禅があると云う中国の禅僧の

話は、首肯するところがあり、印刷機の回転の中にも禅がないかいなと

考え込むのですが、そうそう都合よくはいきません。

帰りは、川端康成「千羽鶴」ハイちょっとエッチです。赤絵爆のような

世界が繰り広げられるのかなと思いましたがちょっと違います。

因縁とカルマと伝統と様式美が没落鎌倉上流社会の中で繰り広げられます。

ちょっとビスコンティの感じがします。

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