武田花 仏壇におはぎ
2024 年 6 月 7 日 金曜日広辞苑と漢和辞典の間に武田花さんがいた。1時間ばかりパラパラと
読んでしまった。仏壇が好きで墓場が好きで酒が好き、場末の庶民的
な飲み屋が好きと云うのも私と同じだ。なんであっちばかり見るんだ
ようと思う。寂しいと云うか悲しいと云うか完全に泰淳と百合子の心
の荒廃を移植されてしまっている。ずっと気になる人でした。合掌。
広辞苑と漢和辞典の間に武田花さんがいた。1時間ばかりパラパラと
読んでしまった。仏壇が好きで墓場が好きで酒が好き、場末の庶民的
な飲み屋が好きと云うのも私と同じだ。なんであっちばかり見るんだ
ようと思う。寂しいと云うか悲しいと云うか完全に泰淳と百合子の心
の荒廃を移植されてしまっている。ずっと気になる人でした。合掌。
観照空蓮房
山谷佑介 「温泉」
ーAssemblage,Environments & Happenings ー
Photographs
2024年6月5日(水)〜 6月28日(金)
※6月14日(金)は閉廊します。
作品
* 水・木・金午前10時〜午後3時開廊
* E-Mailでの事前予約制。日時・人数をご予約ください。
https://kurenboh.com/contact/
(前日、当日の予約はご遠慮ください。またいくつか候補を挙げてくださると助かります。)
* 1時間単位で予約を承ります。空間内へは1人ずつです。(1枠2人くらいまで)
* 空間内では土足厳禁ですので靴下をお履き下さい。
* 土日曜日は法務のない場合のみ予約を承ります。
* 賽銭制
「温泉」- ASSEMBLAGE, ENVIRONMENTS & HAPPENINGS -
野湯(のゆ・やとう)と呼ばれる自然の中に自噴する整備されていない温泉巡りは、山谷がカメラを手にして間もない15年程前から始まり、友人や家族、時にはSNSやZINEで希望者を募り現在も続いています。温泉文化の歴史は古く、湯や水辺の場を中心にした人々のコミュニケーションは『日本書紀』や『万葉集』の中で、男女が一緒に飲食し、歌を交えて親睦を深める場として記述されています。山谷は温泉での撮影を続けていくうちに、原始の時代に耳を傾け、空間を超えて異なる惑星へと思いを馳せるような態度になってきたといいます。それら一連の実践は、時間を超えても変わらずに存在する自然や人間の姿を記録する撮影行為だけにとどまらず、ありのままの風景に身体を介在させて、人間と世界そのものを捉え直そうとする試みとも言えます。
15年程前から、タイミングを見つけては全国の野湯を求めて山を歩いてきた。自然に湧いている温泉を探すわけだから、もちろん行くまでの道のりも整備されているわけではない。本やネットの情報を頼りに自分の足で探してきた。一人でも楽しくやってきたが、同じ目的を共有できる友達がずっと欲しかった。そこに深い意味はない。それを欲する心は、子供の頃に学校の裏山に秘密基地を作ろうとする気持ちと、あまり変わらない。変わったのは、ずいぶん自分が歳を重ねたことくらいか。自分のSNSで野湯の希望者を募ると毎回何人か連絡をくれるし、写真展に来てくれた人たちはもっとダイレクトに参加表明をしてくれる。そういう人たちを集めて次の野湯探しを計画する。自分以外のメンバーはお互い初めましての人たちばかり。面識のない人たち同士の、半ば強制的なコミュニケーションが始まる。自分を知ってもらう為の自己紹介、振る舞い方。相手を知るための質問と若干の駆け引き。探検が始まる高揚感と非日常への期待感。共通の目的を持った連帯感。そこで生まれるグルーヴは、年齢や時代を超えて、かつてあった感覚を呼び起こしてくれる。小さな本、「4種類」創りました。 山谷佑介
「パラダイスへ向けて(極楽論)」
仏教は、「縁起」の理論から森羅万象、関係性において現象を起こしそれは絶え間なく変化し続けている状態であり、故に「無常」であり、掴める実体(固定される実体)は無いと説く。また、仮に実体とは、その人間の心(八識:五感+末那識+阿頼耶識)によって認識されるものであり、外界に真実を求めるのは欲であり仮想である。言ってみればその本質は「自分だけの実存」ということになり、その実体とは常に心が認識している無常の現象にすぎない。そこにもがく「苦」からの解脱が仏教の目的である。
写真装置はその観察装置(新たな実体を作る)だが、イメージは浮遊し支持体によって固定されるがそれをも無常だから固定されるものは一切ない。表象は無常である故に実体に過信した向きでリアルと称して写真を語るのは好ましくない。また、唯識の立場からすると刷り込んだ感覚を阿頼耶識に収めたなら自由な振る舞いにその感覚が無意識に行き渡るであろう。生身のAIでありプログラミングかもしれない。現実と仮想は似て非なる悶々とした課題を残している。勝手にならない勝手に身を任せ、現実の妄想に表裏一体の問答を繰り広げる「写真」は面白い。パラダイス(浄土)としての様相を写真に収めるというなら実に楽しい。
日頃我々が言う現実世界は「仮想現実」であり「すべては空であり、現実は自己の心のスクリーンとして現れている」と仏教は説きこの切り返しが上手くいかないのは、記号、コードにおける社会言語の共有性であり、ミッシェル・フーコーやルネ・マグリットの「これはパイプではない」の話と同様である。
このように心が世界を認識して作っているという唯識の立場からすれば、極楽浄土の様相を説く「阿弥陀経」はまさにメタバース世界の確固たるものかもしれないし、仏教の極意かもしれない。我々は、悟るに悟りきれない凡夫としてその様相に浸る願望は、温泉に浸って「あ〜ゴクラク、ゴクラク」と言わんばかりに仮初な快感(自由な境地)を得るのかもしれない。
極楽のスイッチをどのように入れるかが大切である。ベトナムの禅僧ティクナット・ハンは「ナムアミダブツ」と称えればそこに極楽浄土が出現する、と説いた。親鸞はこの世はすでに極楽と説く。法然は念仏の信心で極楽に導くと説く。いずれにせよ、まさに極楽は認識のスイッチにあるかもしれない。
万物が関係性の上に成立つが故に「思うようにならない苦」の対岸として「極楽」を想定するのは容易いが、この世の仮初の極楽観は単純な快楽主義に流れぬとも束の間の瞬間に立ち現れるのかも知れない。「この世は地獄」と称する人もいるが、そう認識すればするほど渇望するであろう。しかし、少しでもその執着から離れ開放する向きに真の自灯明におけるパラダイスは待っているように思う。
浄土教はちょうど乗合バスのように「みんなで一緒に極楽へ」のような感じでもある。ユートピアとは、真の自由を追求するサンガであり、共同体だ。であるならば、この共有する感覚を社会に投げかけようではないか。俗に実存の有無に揺らぐ私達は人生の旅路を終えた時に覚えるのだろうが、リアルとかリアリティーという判断基準を超えた実存なき世界での戯れとしてのパラダイスへと階調を生きる上で脱構築しなければならないかもしれない。そしていつか往生できる身の上の準備として。そして自己という精神軸なる自灯明の共有と苦からの開放として。離れ難き自我を認め虚構の虚しさを打破してフィクションである現実を楽しく演じる人生として、超越したフリーダム、極楽を掴めよ、と。生まれ難き人間に生まれたからに。
空蓮房
山谷佑介 YAMATANI Yusuke
1985年新潟県生まれ。2013年に初写真集『Tsugi no yoru e』を自費刊行。近年の展示に「第14回恵比寿映像祭」(東京都写真美術館、2022年)、個展「KAIKOO」 (Yuka Tsuruno Gallery、2021年)、「VOCA展 2021」(上野の森美術館、2021 年)など。 写真集・モノグラフに『ground』(lemon books、2014年)、『RAMA LAMA DING DONG』(私家版、2015年)、『Into the Light』(T&M Projects、 2017年)、 『Doors』(ギャラリー山谷、2020年)など。 最新作は温泉を題材にした『ONSEN I』(flotsam books、2023年)。
あらいきりこちゃんは、10年前イニュニックでアルバイトをして
いました。将来、イラストレーターで自立したいと云っていたので、
いろいろな絵を描いて貰っていました。上の絵は、どこかの広告に出
したイラストです。注文出したら一晩で描き上げてきました。
「いっぱい読みたい」と云う場合本を一杯周りに本を積み上げるの
ですが3人分の目と手と本を描いてきた。気に入ったのでプリント
残していました。
古い友人の娘です。小学生の時によくイニュニックに遊びに来ていま
した。今日久しぶりに友人に電話したら人気者なっていると教えてく
れました。今でもイニュニックの留守番電話の声は、きりちゃんです。
当時は小さな体で刷版をしていました。