決定版「日本の喜劇人」
2021 年 6 月 29 日 火曜日
スイス対フランスは中々の名勝負でした。慢心のフランス対必死のスイス。
エムバぺは、此処から大きく成長するかな?何回も何回も頭を抱えていた。
双方の観客も頭を抱える事が度々テレビに映されるのだけど、それぞれ学
校で教わった訳でも無いのに世界共通ですね。これは間違いなく遺伝子に
組み込まれている。ミスをしても頭を抱えない人と抱える人が居る。自信
の表れなのか育った境遇なのか?でも頭を抱える人は伸びる気がします。
「日本の喜劇人」と云う本は知ってはいましたが、永く読む気にはなれな
い本でした。喜劇は読むものでは無いですよね。その場で笑う物です。でも
面白い喜劇が無いと云うか、感じる柔らかさが無くなったと云うか、毎月
毎月、頭ばかり抱えていたんでは、笑いが生まれる余地などないですよね。
それでせめて昔の喜劇人と相成りました。前にも書いたけど私の笑いの原点
と云えば「三馬鹿大将」5歳ぐらいでしたけど兎に角面白かった。生まれて
初めて笑うと云う事を知りました。そしてその次に燦然と輝く笑いの原点と
云えば「藤山寛美」ですね。昭和40年から43年ぐらいの一番脂が乗って
居た時期、日曜伝統芸能で観ていました。ここでは浪曲の面白さも知りまし
た。寛美の芸の良さと云うのは、笑いに色気がある。小学生でそんな感想を
持てるほど人生を知る筈も無く、多分一緒に観ていた婆ちゃんに教わったの
だと思います。今になって思うのは、色気と云うのは媚なんだと思います。
私を観て。私を受け入れて。私を認めて。これ全部媚ですね。媚びない笑い
は艶が無い。売れて金が入って来ると大抵艶が無くなって面白く無くなる。
今の笑いの人達は媚びないで話芸のようなもので笑わせようとするところに
無理がある。笑いの原点と云うのは優越感と蔑みと自虐をミキサーにかけて
そこから浮き出てくる可笑しみを凝縮して舞台の上に乗せる話芸ですから、
多様性とか平等とかジェンダーという価値観が当たり前になった社会では、
お笑いと云うのは中々成立しづらい芸になって行きます。優越感と劣等感
が必要ですからね。消えゆく演芸でしょうか?媚びると云うのは割と否定
的に捉えられるきらいはありますが、商売でも営業でも媚びる事が出来な
い人はモノ売れないです。頭抱えると云うのも媚なんでしょうね。
ところでもう一人の巨匠「植木等」の日本一の無責任男と云うのは、どの様
な人たちのことを言っていたのかこの本読んでいて気付きました。そして、
それらと自分たちを含めて笑い飛ばしていた日本人と云うのは中々に凄いな
と思った。それはもう、恐ろしいほどの自虐ネタ。ドイツでは見られなかっ
たように思います。「喜劇の日本人」と云うのが正解です。