二つの顔

2014 年 11 月 4 日 火曜日

京都の博物館に展示されている運慶作の仏像は

右から見た時と左から見た時では表情が違うそうです。

理知的な凛とした表情、温和な優しい表情。正面から見た

顔は、目の位置を左右高さを1センチずらして多面的な印象を

与えるように計算されているようです。般若のお面も少し上から見た

表情と下から仰ぎ見た表情とは違います。鬼と菩薩です。

最近使っている財布は、ジャバラになっていて名刺サイズのカード

等を入れるためのポケットが一杯ついているもので紙幣はすべて

4つに折り曲げて納めています。支払う時は小さく折りたたんだ

紙幣を広げながら払うので、どうにもサマにならない。

なけなしの金をしぶしぶ払う渋ちんに見えます。まあ、それはいいとして。

紙幣を折りたたむときは、諭吉、一葉、野口がちゃんとわかる様に顔のところで

折り曲げるのですが、鼻のところで折り曲げると表情が二つあるのに

気づきます。左野口は意地悪で右野口は優しい。右諭吉は聡明で

左諭吉は頑固です。一葉さんも聡明さと優しさがそれぞれに見受けられます。

漱石も真ん中で折り曲げると右と左、全く違う印象です。

これは、肖像画を描くときの基本でしょうか?人の顔は左右非対称が

当たり前といわれています。顔として出来上がったその中にその人の

両面がすでに表れているのか?それとも肖像画のテクニックでそのような

そう反する表情を作りこむことによって多面的な全体像を受けびあがらせ

ようというという画法なのか?表現というのは深いなと思います。

昨日、有るおうちでそこのおじいちゃんに挨拶したら、笑いながら

「おぅ、山梨のぶどうじゃないか」と言われました。目に険が有ったので

「どういう意味だろう」と少し気になって考えていたのですが、判りません。

それが、今朝、朝方の3時起きた瞬間に「種無し」という言葉が浮かんだのです。

ひどいことを言うなという憤りより、夢の中でも人間は思考するのだなという

そのことに吃驚してしまいました。無意識の中でその表情と言葉にとても

どす黒い悪意を感じ取っていたのかもしれません。4年ぶりに会ったので

こちらはすっかり忘れてしまっているのですが、バカな冗談を云ってしまった

のでしょう。人間というのは複雑です。我々が認識できてるのは上澄み

だけで奥深い心の活動は色んな感情が浮かんだり消えたりマグマのように

どろどろに溶けてのたうっているのかも知れません。

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