気になる言葉
2011 年 1 月 24 日 月曜日若い時分は、意気地無しとか駄目な奴などと云う
言葉がとてもよく喉元に刺り、うじうじ頭の中で反芻しながらため息を
吐くことが多かったけど、さすがに年をとるとそう云う抜き差しならない
関係そのものが希薄になって来ており、もう少し違う言葉に反応する
ようになってきます。
去年の暮れには新聞で「食と云う暴力」という言葉を見つけてあれこれ
考えておりました。日々の食生活と云うのはとても厄介でありまた不穏
なものです。10時間おきに、早ければ6時間おきぐらいに切羽詰った状態に
我々を陥れます。とくにかくにも定期的に何らかのものを入れ続けないと
どうにもこうにものっぴきならないことになってしまう。あたり前過ぎる話では
ありますが、改めて食と云う暴力なんて他人事のように言われると、それは
それで何か恐ろしいことのように思ってしまいます。
宮沢賢治の「雨にもマケズ」のなかのキモとなる言葉は、一見 「デクノボー」
のように思われますが、実は「玄米四合」なのではないかと思います。
みんなが玄米四合食べれたらいろんな問題、すべて解決します。
この玄米四合の解釈がとても難しい。
今年になって読み始めた茨木のり子さんの詩集の中に人間の定義として
「境をひくもの」と云う言葉がありました。古い経文の中にある言葉だそうです。
今は、これをうじうじ考えています。境をひくと云うのは自分と他人を分けたり
国と国を分けたり、人生の節目節目を分けたり、自分の状況でさえ幸せと
不幸せに分けてしまう。ほんとにそう云われてみたら、線ばかり引くのが
人間だと思えます。だからこそ境を越えていこうと云う姿やものはとてつもなく
かっこいいです。
昨日、県対抗の駅伝大会をテレビでやっていました。
選手はそれぞれ、自分の能力の境を探りながらその線を越えようと頑張ります。
能力の範囲内で終わった場合でしたら、良く頑張ったねでおしまいですが
限界を越えようと云う姿は、やはり胸を打つものがあります。
みんなそれぞれにかっこいい。
ところで今回、テレビで駅伝を見てて思ったのですが、
最後のアンカーの人が襷を肩から外して手に握ってゴールしてくたら、私たちも
その襷を受け取ることができるのに。
どの襷でもいい、好きな襷を受け取って、ちょっと頑張ってみるかなと
勝手に最終アンカーになってみるのもいいと思うのです。
それも境を越えると云う事だろうと思うのですが。