「猫道場」礼儀・作法・武芸全般

2005 年 12 月 15 日 木曜日

近所にとてもかわいい猫がいるのですが、なかなかなついてくれません。それで、餌付けをすることにしました。そうすると、一応餌を食べに来てくれるのですが、頼りにしてくれているような感じはないようです。餌を食べている所へ半歩ぐらい近づこうとすると、目をむいて威嚇します。そのくせ、お昼になると餌場に佇み辛抱強く待っています。たまには、磨ガラスの向こうで「ニャア」と鳴いたりします。犬は御飯の時には、嬉しそうにシッポを振ります。「ねえ食べていい?ねえ食べていい?」と目で聞いてきます。その姿には今日一日の糧を、ありがたく頂く事への感謝の気持ちが満ちあふれています。しかし猫にはそんな気持ちなど、微塵も無いようです。「あんた、私にメロメロなんでしょう、早くご飯頂戴よ!!」と言うような感じしか無いような気がします。それでもまあ、それが猫の魅力と言えばそうなのですが……。そこで私は考えました。人間と犬と猫は、長い歴史の中でもう随分一緒に生活してきました。この社会の中で、それぞれが自分の役割を担って生活し、お互いを支え合って生きてきました。犬は番犬や猟のお手伝いなどをします。そして、そこに自分の存在意義を見い出して誇りさえも持っているかのように見受けられます。

しかし猫は、だめです。享楽的で怠惰な生活に明け暮れながら、その容貌のみで人間の寵愛を一身に浴びて、日々の糧を掠めとって行く毎日なのです。こんな関係は改善されるべきでは、ないでしょうか?猫もちゃんと人間社会の一員として、それなりの労働を受け持って然るべきではないでしょうか?

そこで私は、心を鬼にして猫を鍛える事にしました。まず礼儀です。餌を頂く前に、何かそれらしい挨拶、叉は動作があって然るべきではないかと思うのです。ちょっと会釈するとか、目を合わせて心の中で「今日もありがとう」とか、叉は具体的に「ニャア」とか言ってくれると、私としてもそんなに意固地になる事も無い。たかだか猫なんだから、一々礼儀だとか感謝しろだとか、大人気ない事を言う気は毛頭無いわけです。でも、もうちょっとこちらに愛想などを振りまいてほしいわけですね。

我が「猫道場」では、最終目標をはしを使えるようになる事をもって、免状を与える事としました。御飯を頂く時に、器から直接口で食べるクラスメート、叉は同僚がいたらどうでしょう?悲しいと言うより、自分の属している社会そのものに疑問を感じる事になってしまうはずです。自分の属している社会に誇りを持てない人は、自分の人生をも一生懸命に生きる事は、出来ないのではないでしょうか。

はじめは、インキの蓋に餌を盛っていたのですが、2週間前から、少し深い容器に餌を入れる様にしました。インキの蓋の時は、手を使わず、四つ足のまま口で直接食べていました。ちなみに現在のメニューは、煮干し、サケのトバ、スルメ、ビーフジャーキーです。

今は、少し深いので直接口で食べる事は出来ません。まず手(前足)で器から外に出して食べていました。それが次の段階では、器の底から手で掬い上げて直接口に入れるようになりました。少しは成長したと思いませんか?手を使う事を覚え始めたようです。ところが、最近指で掴むようになったのです。猫の手をようく御覧になった事がおありでしょうか?なにげに「グー」だけのように思ってらっしゃいませんか?ようく見ると、手の平になっており「チョキ」も「パー」も出来るようになっております。しっかり指を使って器の中の煮干しを掴んで口に入れるようになりました。まだ、一つ一つ意識的に出来ているようではありませんが、間違い無く指を使っています。その内に、それぞれ煮干し、煮干し、トバ、煮干し、スルメ、煮干し、トバと、好みで食べ分けるようになると思います。

明らかに、猫(本名レオ)は進化しています。今日、あまりにも嬉しかったので、レオを少しからかってみました。指を猫ジャラシのように動かしていると、レオはじゃれるように猫パンチをしてきました。しかし、猫パンチのツメが立っていたせいか、私の指に突き刺さってしまい、みるみる血が吹き出してしまいました。最近、指を開く習慣ができてしまったので、猫パンチでもツメでキズをつけてしまう事になったのでしょう。ある意味、象徴的に生物の進化を物語っているような気がします。人間も、手を使う事により、進化を遂げると同時に、攻撃性を身につけてしまいました。手を使うと言う事は、より大きな欲望を充足させるのと同時に、平和な楽園から、自ら出ていかなくてはならなかったと言う事でしょうか。

「あっ、そうだ!最終目標は、箸が使える様になるまでではなくて、リンゴの皮がむけるようになるまでにしましょう。」

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