余生

2014 年 5 月 15 日 木曜日

年金の支給開始を75歳からなどとするという提案があるようですが、

これは困ったと頭を抱えた昨日だったのです。

65歳になったら引退して、田舎で農業する予定だったのです。

いえいえ、「60歳過ぎてでも良いな」と甘っちょろい妄想を逞しくして

いたのであります。しかししかし、少しばかりの現金収入が無いと

自給自足では生活が立ち行かない。さてさて、脆くも我が余生、

暗雲が立ち込めはじめたのであります。毎日毎日、身を粉にして

働き通して来たのは、すべてその優雅な余生一本を夢見定めて

来たからに他なりません。里山資本主義に描かれた、循環型、再生型

小さな集落、強い絆、地方からの情報発信、地域の特産物の加工品、

ネット販売。保育所と特養と軽作業所と集会所になるような人と人が

つながれる場を作りたいと思っていたのであります。

今から、そんなことになっているのでしたら後十年もしたら、80歳で一括

500万円払うけどどっちが良い?とかいう選択肢も出てくるのかもしれません。

代々、山住の男親のほうは遊び人の系統を引き継いでおります。

曾爺さんは、相撲が好きで働かないで相撲ばかり取っていて田地田畑

全部売り飛ばしてしまった大ばか者です。昼は男衆と四つ相撲、夜は

女衆と床相撲、数々の武勇伝を残した裸の大将です。

爺さんは海軍の軍人でした。14・5歳で海軍に入ったのでしたら、ロシアの

バルチック艦隊と戦っているはずなのですが、その話はあまり聞いておりま

せん。軍艦出雲に乗っておりました。私が1・2歳の頃69歳で亡くなっており

ます。海軍のボート競走の大会で優勝して、記念に三方と杯を賜ったものが

我が家の家宝となっております。その爺さんは35歳で退役して隠居しています。

恩給が昭和の初めで100円。当時の大工の棟梁の給料が20円ぐらいだったと

云いますからべらぼうな高給です。うちの爺さんは士官という話は聞いていな

かったので、海軍は相当に高給取りだったのでしょうか?35歳で隠居した

爺さんはやっぱり遊び人で置屋の芸者のところに習い事に行くといって

しょっちゅう通っていたそうです。しかし、その恩給も、誰かの保証人になって

家に入らなくなり、また働かなくてはならなくなりました。

しかし、35歳で隠居なんて、軍人とは良いものですね。65歳から徴兵制を

布いて75歳まで軍隊で年金予定者をこき使うというのはどうでしょう?

日本の軍隊はよその国に比べて命の価値が異常に低かった。だから史上

最強と恐れられるし、アメリカも対共産主義の防波堤として利用価値がある

のではと温存されてるわけですが、鉄砲玉代わりに使うのに若い命ではもったい

ない。年金を支えて貰わなければなりません。だから年金を受給される方に

戦争に行ってもらうのです。素晴らしい明暗でしょう。代議士も官僚も社長も

職人も魚屋もみんな一律、65歳になったら2等兵から始める。

これは一石二鳥ですね。社会保障費を抑えながらその対象を消していく。

サロンパスのにおいがプンプンする老人部隊。

しかし、女房たちや若者たちが膝ポンとたたいて「それ名案」と言って具現化に

動き出すような感じがするのが、ちょと怖い。

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